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海外ボランティアとなる

北欧旅行記

7月29日:ワルシャワ

バクーを早朝に発ちウイーンに到着。飛行機を乗り継ぎワルシャワへ向かう。
ワルシャワ空港から市内のホテルまでタクシーで55PLN(約2200円)ホテルはクラシックなブテイ−クホテル。従業員の態度も良好。英語は問題なく通じる。ホテルのボーイは英語の他、ロシア語は出来ないがドイツ語なら解るといっていた。部屋も一流でワイヤレスネットワークが利用可能であった。(但しバスタブは無くホテルの料金は95ドル)

ワルシャワの物価

  • 夕食:15〜25ドル
  • 地下鉄一日券:3ドル
  • ビール大ジョッキ:2ドル
  • ガソリン1リットル:2ドル
  • ワルシャワ−クラカウIC鉄道:往復35ドル

両替は、町の両替所のほうが銀行に比べかなりレートが良い。(銀行;1ドル2.5PLN 両替所:1ドル 2.7PLN)

ワルシャワ市内に高い建物はあるがマリオットホテルなど未だ数えられる程度の数。 一番高い建物は、スターリンが建てさせたもので見るからに醜悪。市民は皆嫌っている由。
駅のそばの4階建てショッピングセンターは非常にモダンなつくりで立派。トイレも大き く広いスペースがとられており非常に清潔。ただ、やたらとドアで仕切ってあるのが気にかかった。
旧市街のトイレは有料で1.5PLN(60円)通りの旅行社のウィンドウに はBalticとValcanという表示がありポーランドの地理的ポジションを示しているように感じた。

気温17度と暑いところからやってきたためか多少寒いくらいに感じた。町の人はセーターやジャンパー姿。ポーランド人はロシア嫌いだそうで(アゼルバイジャン銀行研修センター副所長の話)彼が始めてモスクワからワルシャワを訪れたとき、公園のベンチに座っていたら、彼がアゼルバイジャン人だと分かると、「アゼルバイジャン人はどうやって反乱を起こしたのか」と質問された由。何故氾濫を起こしたかではなく、どうやって起こしたのかを訊ねられびっくりしたとのこと。(アゼルバイジャンは1918年にロシアから短期間ではあるがロシアから独立した最初の国という歴史を持っている。)

車の運転マナーは良好。道路を横断しようとする二人のおばあさんが手を挙げるとちゃんと停止していた。
観光の目玉であるワルシャワの旧市街はかなり広く、戦災を経て復興された歴史的建造物が立派な観光施設として旧市街に並んでいた。
地下鉄の一日券を購入したものの結局広い旧市街を歩ききってしまい、一日券は1回しか使用しない破目になってしまった。 旧市内の広場で見た若者たちのストリートダンスのレベルは設備、ダンサー共にキエフの それと比べるとかなり高く、ポーランドのほうが些か先輩という感じ。

7月30日:クラカウ

ワルシャワからクラカウへはInter City列車で2時間40分。ホームの列車案内は親切ではなく、乗客は列車がホームに到着すると皆走り回って自分の乗る車両の番号を探していた。6人掛けのコンパートメント式(2等車)だがゆったりして快適。線路は継ぎ目が無くゆれも少なかった。ワルシャワ駅を出ると間も無く沿線には田園風景が広がり、ほっとする風景だった。
車内で無料のコーヒーや飲み物のサービスがあり、クラカウ到着直前に紙コップなどのごみの回収のため係員が各車両を廻っていた。
同じコンパートメントの乗客は物静かではあるが親切にいろいろ教えてくれた。二人の若者(一人は高校生)とも上手な英語を使っていた。皆ケータイはコンパートメントを出て使用するなどマナーは良好。

朝9時半ごろ、クラカウ駅到着。着いたとき小雨がぱらついていた。駅からそう遠くないところにクラカウ旧市街があり、先ずそこへ向かうことにしたが取敢えず雨宿りを兼ね、」駅の隣にあるバスターミナルのカフェテリアで食事を取る。 結構美味しかった。朝食の後、旧市街を目指して歩いていたつもりがなんと予約していたホテル(線路を挟んで旧市街とは逆の方向にある)が見えてきてしまったので取敢えずチェックインを済ませる。ホテルから旧市街まではすぐ(約15分)とのことだったので歩いていく。途中銀行に寄り両替をしようとしたら、窓口の女性が両替は町の両替所のほうがレートが良いからと近くの両替所の場所をフランス語で教えてくれた。(銀行の両替レートはよくないらしい。確かにかなりのレート差があった。何故フランス語になったかというと、彼女は、英語は出来ないがフランス語なら話せる。あなたは、フランス語は解るかと訊かれたので解るとうなずいてしまったため。右とか左とか真直ぐくらいの単語なら解るのでうなずいてみた)

クラカウの旧市街は、スケールははるかに大きいものの、作りはウクライナの古都リュボフとそっくり。(城壁に囲まれた市街の中心には市民ホールと市場広場、又どう言う訳か薬局が必ずある。)2階建てバスに乗り旧市街の概観をバスから見学した後、市内を歩いて廻る。教会を中心に古い建物、大きな広場とその周りのテラスカフェという景観を見ながら、ビールのジョッキを傾けゆっくりと時間を過ごす。気分良好。

8月1日

クラカウからツアーバスでアウシュビッツへ向かう。ポーランド語でバスガイド嬢としゃべっているポーランド系アメリカ人と思しきおばさんもいた。アウシュビッツ収容所のガイドは大学を卒業したてのガイド嬢で、なかなかの美形。
大学での専攻は歴史で、ここには出来るだけ長く勤めたいと言っていた。他のガイドさんたちも皆インテリジェンス溢れる美形、イケメンが多かった。
アウシュビッツはここ2年間異常に暖かかったとのこと。1945年前後はかなり寒く、冬は零下30度になったこともある由。収容所の天井に近いベッドをあてがわれた収容者の中には凍死者も出たとのこと。

ストーブはあるがよく効かず、トイレ、シャワー(お湯ではなくもちろん水)の時間は5分と限られているため、全てが収容者間の競争(トイレの場所の確保など)だったこと、また、脱走者が出れば連帯責任とされ見せしめの死刑が執行されたこと、ドイツ人の医者による人体実験が行われたこと、それには双子を含む子供、女性も使われたこと、収容者の持ち物は上等なものはドイツ兵の使用のために没収されたこと、全員消毒のためと偽ってガス室へ送られたこと、髪の毛は繊維原料、灰は肥料に使われた事など、普通の観光地にはありえない静けさの中での説明が続いた。説明の中には当然ドイツ人のことが頻繁に出てくる。観光客の中にユダヤ人もいるなかでこれを聞くドイツに人の心は如何ばかりか。

アウシュビッツ見学の後は、近くのビルケナウへ行き広い収容所跡を歩く。
ツアー参加者たちは、当時貨車で運ばれてきた人々が、ガス室組と収容所組に仕訳された場所からガス室の場所まで(200メートルくらい?)を歩く。もちろん全員静かに歩き声は全く聞こえない。
私はエルサレムのホロコースト博物館を訪れたことがあるが、あそこと比べ、アウシュビッツ、ビルケナウは、展示、説明とも淡々としている。ホロコースト博物館の、これでもか、これでもかという感じとは異なるように思えた。

クラカウからワルシャワへ列車で戻る。前方シートのアメリカ人親子がクロスワードパズルをしており、4文字でホワイトマウンテンのある州の名が分からずにいるのを見て、突然、メーン州のリゾートであるバーハーバーを思い出した。(未だ長男が這い這いをしていたころ)夕方10時前、ワルシャワ駅に到着。外は未だ明るい。ホテルの方向への出口が分からず、駅構内をうろうろする。ホテルに着くと従業員は29日に泊まったのを覚えてくれていた。
翌朝チェックアウトのためにフロントへ行くと、映画ロケの真っ最中で狭いフロントのスペースは、カメラマン、カメラを移動させるためのレール、その他ワイヤーなどで足の踏み場も無い。
少なくとも午前中はかかるとのこと。レセプションのスタッフは、迷惑をかけて申し訳ないがあなたも映画に出られてよかったねとジョークを言っていた。

ワルシャワ空港からエストニアのタリンへ向かうが、ワルシャワ空港の込み具合が尋常ではなかった。先ず航空会社のカウンターの前が人ごみであふれ、1時間以上並んだ。乗客は皆辛抱強く待ち、割り込みなども無い。時折、係員が廻ってきて、出発の近づいたフライトの案内をし、乗客を別のチェックインカウンターへと導いている。どうやらほとんどのフライトが遅れての出発となっているようだ。タリン行きも20分程度遅れたがアナウンスなどは全く無かった。ここでは当然のことなのであろう。実際空港の係員に、今日は特別込んでいる日なのか聞いたら、いつもこんなものだという返事が返ってきた。チェックインの処理もゆっくりで、係員も乗客も急がなければいけないというような考えは無いらしい。だから出発時間は遅れることになる。ワルシャワもそろそろ「効率化」を考えるべき時期なのかもしれない。
そのためには空港施設、コンピューター設備といったハードウェアではなく、人の動きを中心にしたソフトウェアの改善が必要なのだと思う。

タリン行きのポーランド航空(LOT航空)になんと日本語を話すスチュワードが乗っていた。きちっとした日本語で話しかけられびっくり。
ちなみに機体はブラジル製のEmbraer機タリンまでは約一時間。空からバルト海沿岸の町や景色を眺めらながらタリンへ到着

8月2日

タリンのホテル(マーチャントハウスホテル)は外人観光客向けのようで値段は高め。(一泊135ユーロ:エストニアはユーロ加盟国)周りのレストランとホテルの前のテラスレストランの込み具合を見ると値段の高さは一目瞭然。(ホテルのテラスレストランの席はがらがらなのに周辺のカフェのテーブルはほぼ満席。)

タリンの旧市街は、ウクライナの古都リュボフ、ポーランドのクラカウ、ワルシャワの旧市街とつくりがそっくり。4つの町は城壁に囲まれた市街の中心に時計台のある市民ホールがあり、その周りが市場広場で、広場を囲んで店が並んでいる。そのなかには必ず、薬局がある。
市場広場が旧市街観光の中心点で広場の一面にテラスカフェのパラソルが広がっている。ちょうど市場広場ではブラスバンドが演奏中。
楽しそうな雰囲気のバンドのメンバーは老若男女ごっちゃ混ぜ。ランチはビアホールで取る。ドイツ式のビアホールで、500ミリリットルを2杯。ソーセージを注文したら、フライパンに2種類のソーセージと豆が入ったものが出てきて、ランチとしては充分のボリューム。ソーセッジは100クローン、ビール大ジョッキは45クローン(約400円)。

歩き疲れた後立ち寄った古い建物の地下にあるタリンのワインセラーは最高の雰囲気。美味しいワインとサラダなど充分に堪能。しかもリーズナブルな値段。タリンはハンザ同盟に加わり長い交易の歴史を持つ。
古きヨーロッパの町という印象。エストニアはCIS諸国のなかで最も市場経済への移行が進んでいる国と言われているが、それも当然で、元々が市場経済を伝統として持っている国で、計画経済のくびきが外れ元へ戻ったに過ぎないのではないかというような気がした。

ポーランドも同様で、共産圏の一員だった時代でも、コルフォーズ、ソフォーズなど集団農場化の比率は極めて低いものに留まっていたと聞いている。これに対して元々市場経済の伝統が無い他のCIS諸国は計画経済のくびきが外れてもそれに変わるものが自動的に出てこないため今でも苦労をしているというのが実態ではないのだろうか。 タリン空港は人混みも無くスムーズ。ロンドン行きの搭乗案内で、遅れている乗客に何回もコールをかけており他の乗客たちは静かな笑みを浮かべて聴いていた。

周囲ではスペイン語を話す観光客の団体と中国人観光客が目に付いた。
飛行機の出発は遅れたがアナウンス等は全く無く乗客も殆ど気にしていない。30分くらいの遅れ。しかしストックホルムにはそう遅れずに到着。飛行機はDeHavillandQ400というプロペラ機。プロペラ機は5年ぶりでビシュケク→タシケントのプロペラ便以来。エコノミークラスの飲み物は有料といまどき珍しい。(2〜3ユーロ)機内のオーバーヘッドロッカーは小さすぎて、国際標準の小型スーツケースは入らない。シートにリクライニング機能は無い。
ストックホルムを空から眺めると、島が多い。陸地に水が入ってきている感じ。緑と水と島の町。プール付きの家もあり、ゴルフ場も見えた。

空港から市内までは最近開通した空港エクスプレス(電車)で行く。自動販売機で切符を買うのに手間取っていると係員が操作方法を説明してくれるなど大変親切。中央駅に着き、タクシーに乗るがなんとあっという間についてしまった。但し、一方通行のためホテルの手前で降ろされてしまった。
後で分かったのだが、駅からホテルまでは徒歩で10分程度の距離。地下鉄でも一駅で帰路は歩くことにした。ストックホルムのホテルは、宮殿を始めとする観光名所が並ぶ地域にあるブテイークホテルでちょっぴり高級(五つ星とか。)
早速王宮に行くと幸運にも衛兵交代の時刻だった。見ている人も堅苦しいところは全く無く、かなり近くによってカメラを構えていた。議事堂、ノーベル博物館、お店のぎっしり並ぶ狭い石畳の通り、レストランのならぶ桟橋、ストックホルム島と向こう側を結ぶ橋などを見つつ歩いていたら、あっという間に島を一周してしまった。
夕食は桟橋のレストランでお魚料理を取る。美味しかったが値段もそれなり。翌日の朝食はホテルの向かいにあるクラブハウスのようなスペースで、高級感溢れるセッテイングだった。

8月3日

朝方小雨がぱらついていたため、ホテルの傘を借り朝のストックホルムを散策。昨日行かなかった市民ホール(ノーベル賞授賞式の行われる建物)を見学に行く。既に観光バスが何台も到着していた。重厚な尖塔が目立つストックホルムの町並みに改めて印象付けられた。

ストックホルム空港のチェックインはスムーズで係員はマイレッジサービスまで気を使ってくれた。一時間ほどでヘルシンキに到着。空から見えるヘルシンキはまさに、湖と森の町。
市の中心にあるホテルにチェックイン。(3つ星位)早速、街中を歩き始める。市内の交通機関は、路面電車、地下鉄、バスとあるが今日は歩きと決め早速フェリーなどの発着桟橋近くのマーケットスクエアーを目指す。途中、ロシア正教会の教会があったが作りはやや粗雑(あまり手をかけていない?)のように思えた。いつまでたってもマーケットスクエアーに着かない。どうやら道を間違えたよう。そのまま45分くらい歩くと船の停泊している桟橋に出た。
別の桟橋らしい。サファイヤプリンス(10万トンくらい)という豪華客船が停泊しており、ちょうど乗船客が市内観光から戻り乗船している最中であった。さすがに歩きつかれてバスに乗り市内へ戻る。

バスを中央駅の近くで降り、駅構内とその付近を歩く。ショッピング街にはいろいろな肌の色をした若者が目についたが、ポイ捨てのごみも目立った。ホテルの近くの通りのテラスカフェでビールを飲みながらストリートミュージシャンのクラシック音楽を聴く。バイオリニストが中心のこのグループはこの近辺で演奏しまくっておりこの場所以外で何度もその音を聴く事になった。ヘルシンキの物価は高いようだ。100ドルを両替してもすぐに無くなってしまう。

8月4日

朝食はホテルのビュッフェ。インド人の団体客と東洋系の人が圧倒的に多い。9時にツーリストインフォメーションセンターへ行くが未だ開いていない。ヘルシンキカード(公共交通機関を自由に乗れるカード)を購入する。値段は52ユーロと結構高い。市内観光用の2階建てバスに乗ろうとしたら、既に予約で一杯。
12時から森と湖を歩くツア−に参加。バスで一時間ほどの場所で森を散策しながら、森の動植物の説明を聞く。ガイド嬢の英語は上手でいろいろな話を聞くことが出来た。
フィンランドではフィンランド語の他スウェーデン語が必須(第2公用語)とのこと。これに対しスウェーデンではフィンランド語を習う人は少ないとのこと。
ファインランドは長くスウェ−デンの統治を受けてきたという歴史が背景にあるようだ。このツアー、自然を楽しむには良いツア−だったけれど、同じような場所は、アメリカの郊外にも、日本にもあったような気がした。

夜はマーケットスクエアー(桟橋の近く)へ行く。昼間あったお店や屋台は片付けられており、クラシックカーの展示会場になっている。1950−60年代のアメ車が多くマーケットのまわり(マーケットスクエアーはもともと駐車場?)をゆっくり廻っている。その数の多いのにびっくりした。このようにたくさんの1950年代のアメ車はハバナで見て以来。(キューバは1961年のアメリカとの国交断絶以来、古いアメリカ車がそのまま使われている)

ヘルシンキではアメリカ文化(ファーストフード、車、NHLホッケー)が街中に氾濫しているように思えた。
夕食は、かなり高級そうなレストランに入る。
料理、ワインも美味しくスタッフのサービスも満点。レストランのバーは若者で一杯。NHLスタンレーカップの優勝チームを祝っているとのこと。
レストランのほうは何故か女性客同士の席が多かった。午後11時になっても明るく人出も減らない。ホテルの近くの地下鉄への通路に入ってみると、トンネルの両壁に石器時代の絵が描かれており大いに楽しめた。
これもホテルの近くにあるアイスバーに行ってみる。入場料は10ユーロでワンドリンク付き。バーの入り口の前に暖かいコート、手袋、ブーツを貸してくれる場所があり、そこから2重ドアの入り口を入るとアイスバーがある。狭いがカウンター、テーブル、椅子全て氷でできている。フィンランデイアというウォッカを注文。寒いところで飲むウォッカは何故か喉に通りやすい。観光客でなくてもなんとなく騒ぎたくなる雰囲気のバーである。(騒がないと寒い!)お互いに写真を取り合ったり、喋ったり結構面白い時間だった。

翌日の早朝ヘルシンキ空港からウイーンへ。ウイーンから成田へ向かう。オーストリア航空はほぼ満席。 隣に、ウクライナ人の大男が座る。英語もドイツ語も駄目のようで、スチュワーデスが苦労していたので下手なロシア語で彼の用件を伝えてあげると、それから後は絶え間なくスチュワーデスへの取次ぎをやらされる羽目になった。彼はなんとウイスキーを7-8回お代わりしていた。そのうち、ウォッカを注文し、二人で乾杯という例のパターンが始まってしまったのであわててストップした。この大男に付き合えるほどの体力は無い。日本には新幹線を見に行くのだそうで、土木関係の専門家ということだった。でも人の良さそうなウクライナ人であった。ロシア語を忘れるなよという天の啓示だったのかも。

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