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海外ボランティアとなる

タシケント日誌

2001年12月7日(金)

9時35分頃にタシケント空港に到着。空港にはフィンガーが無くタラップを降りる。小雨がそぼ降る天気のなかウズベキスタンでの第一歩を記す。パスポートコントロールのブースは4名しかいないため、長い待ち行列ができる。低開発国によくある光景。(後で聞いたら今回は飛行機が1機しか到着しなかったので待ち時間としてはマシな方。
一度に3機も到着する場合には1時間以上も並ばなければならないとか。今回は約30分の待ち時間で済んだ。
待っている間かなり目立つような美人が横からつかつかとブースに近づきさっさと取ってしまったのにはびっくりした。
やや後方の隣の列にいた日本人ぽい若い3人も困惑げにこのシーンを見つめていた。

パスポートコントロ−ルを通るとバッゲ−ジ引取りに皆群がる。運悪く私のバゲージのひとつが出て来ない。と思ったら既に誰かが回転ベルトからおろしていたようでまずは一安心。
荷物を待っている間にさっきの若い3人組と話す。JICAの青年海外協力隊員で同じ飛行機での赴任とのこと。何かしらホッとする。
荷物の通関の領域にJICAの現地オフィサー2名が入ってきて我々の為に別のX線荷物チェック機を動かすようアレンジしてくれた。これで待たなくて済んだほか殆どノーチェックで通関できた。感謝!
我々のための新しい列ができると一人の中国人か韓国人ぽい男が大きな荷物を持って割り込んできた。なかなか目ざといアグレッシブな動きでは合ったが係官に排除されトライは成功せず。残念だったね。

空港にはかなりの人数が迎えに来てくれていた。JICAも人たちと既に赴任している青年隊員の人たちが色々と世話をしてくれた。ありがたし。JICA調整委員の上田さんが私の面倒を見てくれた。(彼は自分の車であとの2台はオフィスの車のよう)
まず青年隊員の泊まるホテルへ行く。かなり安そうなホテルであった。ついで私の泊まるホテルへ行く。DIPホテルという名のホテルは?流クラスかという感じ。
部屋というよりはアパートのようで寝室、リビング、キッチンに仕事もできそうな机の置いてあり部屋もありなかなかのもの。と思ったのだがランプがついていない、あるいは切れている照明、閉まらないドア、座れない椅子(新しそうなジム椅子なのに何故か足の一部のキャスターがない為全く使えない)、さらにまったく開くことのできないカーテンが各部屋につけられており、うー−んこれはこれはという印象。

上田さんから今後のスケジュールを含む資料と現地通貨2万スムを当座の資金としてもらう。500スム紙幣40枚で約1500円とのこと。このお金は水曜日まで持った。とりあえず荷物をバゲージからだし片付けてベットに倒れこむ。考えてみれば日本時間では朝の4時でさすがに疲れて眠い。

2001年12月8日(土)

6時半頃目がさめる。あたりはまだ暗い。ケーブルテレビをつけるとCNNやBBCも見られ情報的にはあまり問題なし。ただし日本のニュースは殆どなし。
小泉首相とEU首脳との階段の様子のニュースは在ったが。朝食はホテルの食堂で取る。テーブルが4つおいてあるこじんまりした食堂でビュッフェ形式。プラムジュースとミルクがおいしい。隣のテーブルにいたアメリカ人と話す。彼の名は、ロン ピータース。
アラスカに住む環境事業関連のコンサルタントで国連の中央アジア環境維持プロジェクトでタシケントに来ている由。月曜日まで滞在の予定。以前にアフガニスタンにいた事があり同国の南方面はともかく北の地域はゴージャスカントリーだよと説明してくれた。

国は美しく人々のホスピタリテイーは素晴らしく云々。ただしソ連が進入してきてからはかなりの混乱が生じ白人は皆ソ連人と思われかなりの人々が殺されたとのこと。彼もそのためアフガンを去った由。仕事は英語で行い通訳を使っているが、通訳の使い方には気を使っているとのこと。
必ずしも仕事、技術を知らないものが通訳するので本当に伝わるか問題は大きいそうで、おおいに参考になった。パレスチナの話をしている際に、彼は今アメリカが自らの動きに自信を持ちすぎ一気に走る可能性が高いと心配していた。その可能性は事実強いと同感。

日本に電話で到着を知らせる。思ったより寒いこと以外は全く問題ない環境であることを伝える。
ホテルを出て近くを歩く。革靴しか持ってこなかった為、道がでこぼこ且つ泥んこのところも多く往生した。大通りに出ようとホテルを出て突きあたった大きな通りを右に曲がって歩くと、小さな店がぽつぽつとあるが看板は殆どかかってない為、お店だとは分りにくい。
肉屋ではその場で肉を何キロと注文しそれを捌いて渡すというやり方のよう。途中の店で珍しく大きな看板を掲げているところが在った。何と、ポケモン!のショップ。残念ながらまだ開いていなかった。道端でミルクを売っている。
ボトルに入ったミルク数本を布でカバーしているだけ。
屋台も何もなし。20分以上歩くが何か寂しいところに(NBUスポーツセンターという表示あり)出てしまいこれは間違ったかと元へ戻る。
つまりホテルを出て突き当たったところを右ではなく左へ曲がれば150メートルくらいでアムールチムール通りという大通りに出られたのだ!。この通りをJICAのオフィスがあるインターナショナルビジネスセンター目指し歩く。

スーパーマーケットやショップがあるがまだ開いていない。20分ほど歩く。(後で分ったが地下鉄で一駅の距離)交差点を渡るのが意外と気を使う。
歩行者用の信号が殆どないしここの人達は信号を全く無視して渡っていくようで慣れるまでちょっと時間がかかりそう。広いスペースに新しく、高層のモダンなビルが立ち並ぶ。その一角のコンテイネンタルホテルに入ってみる。
堂々の超一流ホテルだがあまり泊まり客はいない様子。
地下のスポーツセンターに行き設備を見せてもらう。マシーンルーム(狭い)、プール(円形で小さい)では水中エアロの真っ最中。サウナ、シャワーと設備は揃っている。費用は年間1100ドル。(月110ドル)但しスムで払える由 レートは$110=75,500スム

会員になるための手続きとして医師による健康診断書を提出してくれとのことだった。まーゆっくり考えるか。ホテルの側にあるインターナショナルビジネスセンターに行ってみる。
ここも新しい立派なビルで1階の受付で呼び止められ、パスポートを提示し入管登録をした。係員が親切にも5階のJICA事務所まで案内してくれた。入り口のブザーを押すも変じなくそのまま退散する。

昼は近くのアライスキーバザールへ行った。地下鉄で一駅目に在り歩いても10−15分ぐらいのところ。食料品、野菜、果物、唐辛子類、肉、魚、衣料品、雑貨等々たくさんの種類のものがが並べられている。魚も結構豊富のよう。淡水魚でも大きさはかなりのもので特になまずのような髭を生やした魚のサイズはびっくりするほどの大きさであった。おおいに感心して帰ったが、後から聞いた話ではここのアライバザールは観光客用の要素も強く値段も他のバザールと比べて高いのでこちらの人はあまりここで買い物をしないとのこと。

お腹がすいてきたそのときシャシリクのおいしそうな煙が鼻を襲い即これを注文しテーブルに座ってナンと一緒に早速食べ始めた。シャシリク3本で350スムで済む。2:30に鈴木さんがホテルに来てくれるというので2:25にホテルに戻るが彼女は2:00に来て待っていたが帰ってしまったとのこと。どうやら時間を間違えたらしい。でも確かに上田さんは2:30と言った筈なのに。もっとも、彼女も早めに来たいとか言っていたっけ。(ごめんなさい、鈴木さん)

夕方6時ごろ柴田さんと江藤さんがホテルの部屋まで来て夕食に誘ってくれる。若い人たちの行きつけのとこらしい。
ビールを飲んでスパゲッテイーを食べた。岡平君、田中君、小林さん、林さん、皆なかなかいい感じの人物だが、ここにきた当座はかなり苦労したようだ。食事も1週間ぶっ続けでナン(パンの一種)とソーセージばかりを食べていたとか、バスを間違え学校の授業に最初から遅刻したとかーーー。

でも今やそれを乗り越えた自身のあふれる態度と話し振りが印象的だった。(林さんを除いて皆日本語教師、ウズべキスタンは日本語を習っている人が多いようだ)林さんは看護士。
江藤君は柔道の教師で、同国の選手は国際大会でも優秀な成績を上げているとのこと。柴田さんも自信あふれる話し振りで生徒たちからも信頼されているように窺われる。

2001年12月9日(日)

朝食はホテルのビュッフェ。目玉焼き(サニーサイドアップ)を頼む。
10時ごろから旧市街のバザール、チョルソーへ行く。地下鉄を乗り継ぎバザールへ到着。ドームがバザールの中心。
しかしドームの周り一面にも様々な店や品物を並べた人々がこれでもかと言うようにひしめき合っている。
規模といい人の数といい本当に圧倒されてしまう。今まで見てきた東南アジアや中国、韓国の市場とは比べ物にならない大きさと密集した人々の醸し出す迫力に圧倒されてしまった。
売り買いされているものは食料品、野菜、肉、魚、麺類、米、チーズ、バター、ヨーグルト、酒類、お菓子、ケーキ、漬物、果物、衣類、靴、家具、電気器具、雑貨、等等々―――何でもありの市場だ。
ニワトリに七面鳥が足を縛られたまま動き回っている一角もあった。かわいらしい小鳥も売っていた。

時には、孔雀も登場するらしい。寒かったので帽子を買う。アデイダスのマークのついた鳥打帽がおおいに気に入り購入。数件見比べて1800スム払う。
アメリカ人が毛皮のふかふかとした帽子の値段交渉をしていたのでちょっと聞いてみたら、ドルで18ドルを更にまけさせようと手のひらに数字を書いて熱心に交渉していた。この広い市場を歩き回り疲れたのと寒さで突然あったかい物が食べたくなり、目に入った大きな鍋でぐつぐついっている肉とジャガイモのスープ(肉じゃが?)を頼む。土の上においてあるテーブルで待っているとボ−ルに入れたスープとナンが運ばれてきた。

300スムながらすごくおいしかった。帰ろうと思って地下鉄の入り口を探して歩き回るが市場の中心あるドームをぐるりと回らなければならないこともあって、なかなか見つからない。3人ほどに聞きなおし漸く入り口が見つかる。
地下鉄のサインは遠くからは分りにくく、これでは見つからなかった筈だと少々自分で納得した。

夜は、JICAの皆さんが新隊員(私も隊員なのだ)の歓迎会を開いてくれた。場所は韓国料理屋。名前はワールドカップ2002。
夜勤で来れない一名の方(看護婦さん)を除き全員参加。皆元気溌剌で明るい。ここに来て何とか自分の力で仕事をこなしてきたという自信が体から発散しているよう。日本語教師が6名(うち2名は引継ぎを終えて帰国する)、看護婦・助産婦さんが4名、柔道、空手、体操、バレーボールの教師が各1名、JICAは所長を含め4名と私の計19名が現在の人員。所長が本当に大人数になったものだと感慨ぶかげな挨拶をしていた。
若い人は、本当に伸び伸びと自分の力を充分に出せているようだ。これなら日本でもどこでも大丈夫。ロシア語やウズベキ語も聞いている限りそこそこのレベルのようで大したもんだという印象。
特に皆べたべたせずインデイペンデントなところが光って見えた。

2001年12月10日(月)

9:45にホテルに迎えがくる。初日だけらしい。JICA事務所に生き現地スタッフに紹介される。皆英語はしゃべれる。女性スタッフも皆かわいい。
現地のトップレベルが採用されているのだろう。オリエンテーションはどういうことはなく形式上やったよというようなものか。次いで所長との面談。これも特に目新しいものはなく形式的。
次席と担当者が同席しているのもこんなものかという感じ。(多分、閑なのか興味津津なのか)昼は同じビルの1階のレストランで皆と食事。同じビルにいる日本人がやはり食事をしている。午後は、健康管理担当の現地ドクターの話を聞く。
JICAから言われているのか、すべての食品に気をつけなさいという極めてリスクヘッジを感じさせる話。
たとえば、バザールの店で食事してはいけない、ヨーグルトなどを買い食いしてはいけない、町の店やで肉を買ってはいけない、必ずしっかりしたスーパーマーケットで買え等々。

そういうことはこちらがバザールに行く前に言ってくれ。既に、ダメといわれたことは完了形。バザールでシャシリク、スープ、ヨーグルトとは美味しくいただいた。
次に新着4名で日本大使館を表敬訪問。中山大使はいかにも育ちの良い昔はお人形さんのようだったろうと思われるような方でいい感じ。

自ら積極的に場を盛り上げてくれた。大使館内を挨拶回り。茶髪の大使館員に出会う。面白そうな奴だ。銀行カレッジには4時に行くはずが何故か遅れて5:15頃事務所を出発。
あたりは既に暗くいく方向も学校の周りも全く見えずやや不安。入り口まで、学長と副学長および私専用の通訳(教師でもあり、銀行に勤めてもいるというまことに不思議な話だが、当地ではそう不思議ではないとのこと。まーそのうち判るだろう。

後者の外側は見えず、内側はお世辞にもきれいとは言えず廊下は歩くとぎしぎし言う。最初に通された部屋はカーペットがしかれている大きな部屋でおそらくここが一番良い部屋なのだろう。
学長室もそう広くない。私の部屋はカーペットなし、机が2つ並んでいる狭い部屋。(私と通訳。)おおいにショックあり。学長に、どんな授業を私に期待しているのか質問すると、その内容は、あなたが提案してくれとのこたえ。
それはありがたい、当方の裁量でできるならこんな良いことはないとホットする。でも、こちらの提案通りやらせてくれるかは当然不明。

少し時間をかけて決めればよい。ついで、教室を回る。おおきものは100人小さいものでも40名から50名ははいれそう。机に間に間隔は狭く窮屈そう。
生徒数が1500人と増えている模様(1000人と聞いていたが)学校の人気があるのは良いこと。オフィスへ帰ると早速、どうでしたかとの質問、ちょっと失望した態度が目立ったのだろう。
JICAの担当者としては結構いい線と考えていたらしい。こちらも漠然ともう少し良い環境を頭に描いていただけの話であり特に問題はなし。でも、やはり明るいうちに行きもっと時間を使って話し合いたかった。
でも焦る必要はないか。最初が勧進というのは、JICAの研修時にも強調されていたっけ。先方の要望にそのまま応じる必要はない。
向こうは自分のニーズ必ずしもはっきりしていないことが多いからそこをしっかり把握するのが先決というのがポイント。 まずはそのように進行でめでたしめでたしのスタート。

夜はホテルで夕食を取るがさして感心するようなものは出なかった。
ビールも地ビールが飲みたかったのにハイネケンしかないと断られた。当然値段の一番高いビールだ。もうホテルで夕食を取るのはやめようか。

2001年12月11日(火)――12月22日(土)

日誌を毎日つける元気と時間がなく22日にまとめて書くことにした。

人々の表情

季節が冬のせいか人々の着ているものはクロのオーバーコートが殆どで、これにクロっぽい帽子をかぶっている人が多いため全体的に暗い感じがしてしまう。
つまり華やかな色が見当たらないのだ。これが共産主義の時代から続く抑圧的な社会を移しているのか、単に季節的のものなのかは判らない。春になればひとつの回答が得られるかもしれない。楽しみにして待とう。私の唯一利用できる交通機関となった地下鉄でも、乗っている人々の動きは全く静かで表情もなんとなく硬い。
新聞や本を読んでいる人は殆どいない。おしゃべりもそんなに聞こえず静かな車中であることが多い。いわゆる整列乗車は見られないが全くの我勝ち的な動きもしていない。結構混雑しているときも多いが混乱のようなものは見受けられない。

所得レベル

当地では大学の先生でも月給15,000スム(10ドルちょっと)の由。これでどうやって生活するのだろうかと思うと、やはり色々なアルバイトをやっているらしい。良心的な先生は、有名な大学や大学院へ進学したい生徒の家庭教師をやったり他の大学の教師を掛け持ったりしているらしい。
良心的でない奴は生徒の成績を厳しくつけ、いい成績で卒業したいなら何がしかをよこせとやるらしい。
このレベルの所得では、公共交通機関(地下鉄、トロリーバス、バス、路面電車)の料金60スムはかなりの負担ではないか。どうやって生活しているのだろう。
また、我々外国人の一回の夕食代15,000スムはこちらの人の1ヶ月の給料に匹敵するわけで何とも言われぬ気持ちになってしまう。

交通事情

道路は真っ直ぐで幅はめちゃくちゃに広い。車の数は多くは無いが運転振りは後進国特有の、車が偉い、車優先のスタイルで歩行者にとっては危険な状態。信号が赤でもじっと停止せず少しでも早く発信しようとしてじりじり動いているから交差点で車の前を横切るのはかなり注意を要する。
つまり、緊張する。そして疲れる。こちらの人はそんな事はものともせず、横断歩道で在れそうでないところで在れサッサト渡っている。

私もいつかは慣れるのだろうか。地下鉄以外の公共交通機関は乗っていない。バス、路面電車、トロリーバスとの行き先側からゼ、どこで降りていいかもわからず、また、そこそこの汚さもあっていまだ乗ることができない。
これに乗れるようになれば一人前か。手を上げてタクシーを止める(ここではすべての車が白タク)のはやったことがあるが、行く先を指示してそこでストップさせる言葉の能力が伴わず、いまだ自分ひとりでは乗れない。

食べもの事情

これまで食べたものは、ウズベキ料理(シャシリク、ラグマン、サモサ、等々)、ロシア料理、アラビア料理、イタリア料理、インド料理、中華、韓国、ファーストフードETC. ウズベキ料理の頻度が一番多い。
ウズベキ料理といっても地方によってかなり違うらしい。サマルカンド、ブハラとタシケントではパンをとってみても違うそうだ。でもこの中で疲れたときに食べにいきたくなるのは韓国料理。よき隣国に感謝。

町の道端にテント風のカフェと呼ばれる場所があるが、一番気軽に入れるところ。値段的にも安心して食べられる。店の前で、シャシリクを焼いておりその場で何と何と指定すれば焼きあがったものを運んできてくれる。焼肉の煙の匂いについつい誘われて立ち止まると、タイミングよく声をかけられその店に入ってしまうという寸法だ。
ところで、当地では、すべてが安いのにかかわらず何故かビールだけが安くない。
つまり高くは無いが他のものに比べ国際価格に近いということだ。中瓶で一本3000スム近くで2、3本飲むと本体の食事代より高くなってしまう。ワインはもっと高いようで未だ飲んでいない。
ところでやはり羊の料理は胃にもたれる。毎日食べるにはしんどい。

買い物事情

まだ余り買い物をしたわけでは無いが、何しろ初めてのお買い物的な経験をちょっと記しておこう。
最初の買い物はチョルス−バザールで買った帽子とスリッパ。スリッパはホテルの部屋にいるとき必要で帽子もこの寒さでほしくなったもの。
スリッパは良さそうなのが見つかり値段は売り子の小学生くらいのかわいらしい男の子の言い値(1500スム)で買った。彼は嬉しかったらしく握手を求めてきた。交渉が甘かったかなー。
帽子もたくさんの店(といってもテント張りの小さなもの)を見てやや若向きのアデイダスマークのついたものを1800スムで購入。

早速かぶると暖かくて気分的にホッとした。あとでこちらの人に聞いたら両方ともまずまずリーズナブルな値段とのこと。ホテルの前にある建物のドアが開いており人が入っていくようなので、覗いてみるとちょっとした食料品・雑貨店だった。
外からはどう見ても商店とは判らない、看板も何もない。確かに大通りにある店でも何を売っている店か、はっきりしていない場合が大部分である。本当に商売する気があるのだろうか?
おそらく計画経済下でやってきたことの名残なのだろう。商店、レストラン、バーも同様で店には知っている人がくれば良い、というスタンスなのだろうか。

デジタルカメラの電池かなくなったので買いに行ったがこれまた一騒動。近くのスーパーマーケットに置いてあった電池はカメラに入れてもスイッチが作動しない。
パワー不足らしいがこれはたぶん中国製ではないかとのこと。次に、先日歩いていてみたことのあるコダックのショップに行ったが店はしまっていて誰もいない。次に、タシケントでもっとも有名なツム百貨店に行く。

ソ連時代から続く百貨店である。さすがに外国ブランドの電池があり無事買い物は落着。
しかしかなりの時間を要した。スーパーマーケットで買い物をすると袋は別途買うかもってくる必要がある。ミネラルウォーター、ジュース、ミルクなど重たい買物品をうすっぺらな袋にぎゅうぎゅう詰めて持ち帰る。
一回の買物で4000スム程度かかりこちらの人のレベルではかなりの値段となる。やはりここではスーパーは一部の人々のためのものらしい。

タシケント市内見て歩き

地下鉄と足だけを使った市内見学は結構しんどい。広い町だ。道路は本当に広い、がでこぼこで泥だらけのところ、穴の開いているところなど歩行者にとっては優しくない道だ。
まずはJICA事務所のある一帯に行く。新しい高層ビルやショッピングセンターが並ぶ立派な一角。インターコンテイネンタルホテル、ナショナルバンクオブウズベキスタン、インターナショナルビジネスセンター、ウズベキスタンテレコミュニケーションカンパニー、ショッピングプラザ等がある。市のほかの場所とは、全く違う風景のところである。
何かこの町にこんな立派なものがあっていいのだろうかというほどのものである。
但しお客さんと思しき人は殆ど見かけない。

ホテルの客室も高層ビル内のオフィスも、ショッピングセンターもがらがらである。おまけに銀行は鉄柵に囲まれ、入り口は狭くそこに門番がいて少なくとも顧客を歓迎するそぶりはない。
のちにその銀行の建物に入る機会が合ったが、門番のところ、建物の入り口は厳重なセキュリテイ−管理体制がとられ身分証明書(パスポートなど)を提出した上訪問先部署の係員が迎えに来て、初めて空港にあるのと同じゲートをくぐって銀行内には入れる。
聞けば2年前にイスラム原理主義の爆弾テロが在った為だそうで、いかにもゲリラに狙われそうな庶民から全くかけ離れた一角だ。ホテルも、ショッピングセンターの店も、レストランも、銀行もよく採算が取れるなーと思うくらい閑散としている。
皆最終的には国営企業に特有の親方日の丸なのだろう。建てた傍から不良資産になっている(建設費を融資した銀行にとって)と思われる。

交通事情その2

12月28日の金曜日は道路があちこちで遮断され大変だった。中央アジアの4カ国首脳が集まり会談を行ったためである。ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンおよびキルギス(トルクメニスタンは中立国として独自の道を歩んでおりこの会議には参加していない。)
世界経済外交大学にあるバンクトレーニングセンター訪問の後、JICA事務所のあるインターナショナルビジネスセンターへ向かったが交差点で車が列をなして動かない。どうやら警官が道路を遮断しているらしい。

皆、迂回すべく交差点を左右に散っていく。我々の車もおなじように迂回をはじめた。が、どこの道を行っても皆警官にブロックされ全く目的地にはいけない。
30分以上ぐるぐる回っていたが埒があかないので、市街地から離れた環状道路まで行きこれをぐるっと回ってインターナショナルビジネスセンターの反対側から漸く目的の場所の着くことができた。この間約1時間30分。

疲れたがおかげでタシケント市の郊外を見物することができた。畑の連なる田園風景であった。この交通混乱の理由は、なんと4カ国首脳がインターナショナルセンターを訪れたためということで、センタービルそのものも閉鎖となり、JICA職員も入館出来ないという有り様であった。全くもうー、金日生じゃあるまいし!でも、もしかしたらここは北朝鮮と社会事情が同じかもしれないし。。。でもこうゆうことは良くあることらしい。
運転手も全く動じないし同乗の私のアシスタントはニヤニヤしながら「これでウズベキスタンが嫌いになったか?」と尋ねてくる始末。とにかくかなりのショックを受けた出来事ではありました。この国はききしに勝る以上の共産主義体制が堅持されているようだ。

なお、首脳たちはセンタービルにあるジャパンセンターを突然訪問したいと言ったらしい。というより、ホストであるウズベキスタン大統領が去年開設されたジャパンセンターを隣国の首脳たちに見せたかったらしい。
同センター所長は午前6時から準備体制に入り数時間待った末僅か7――8分のオフィス滞在で、4カ国首脳のジャパンセンター訪問は終わったとのこと。ご苦労様でした、岩波所長殿。

パンクスタイルの若者がいた!

夜の地下鉄のホームでパンクの若者を見た。モヒカン刈りの一番目立つ奴、髪の毛をとんがらせた奴など5――6人で全員男子。女子はいなかった。
やはりかなり珍しいらしくホームにいた人たちは皆にやりとうなずき合いながら彼らを見ていた。地下鉄に乗り込んだ彼らを乗客たちが全員野次馬的感覚で眺めていた中、彼らはそれを意識するでもなく仲間同士でふざけあっていた。
この国にはこういう奴も居るんだ。一方で子供連れはお年寄りにはさっと席を譲る若者も多く見かける。

クリスマス、新年の市内風景

イスラムの国という先入観が強かったためか、サンタクロースの姿や、サンタの帽子をかぶった子供たち、クリスマスツリーを頻繁に目にしたのにはややびっくりした。たぶんクリスマスと新年の両方を兼ねているのだろうが、街路樹に小さな電球を巻きつけ通り全体を色とりどりに明るく飾り付けている風景は、ここがタシケントであることを一瞬忘れさせるほど。
ここでは12月31日と1月1日が休日のようである。(国民の休日かどうかは判らない。)でも町の繁華街やバザールは休んでいない。

1日は閉じている店がやや目につたがそれでも、毎日がお祭りどうりのようなブロードウェイの賑やかさは余り変わらない。ブロードウェイは歩行者専用の道路のようで、左右に所狭しとばかり路上に品物を並べた人々がひしめく。 アンテイ−ク、ぬいぐるみ、絵画、楽器、置物等々の雑貨が並ぶ。 面白いのは、望遠鏡を置いている人、ヘルスメーターを置いている人でいずれもいくらかのお金を取って星空を見せたり体重を量ったりさせている。これも立派な商売なのだろうか。似顔絵下記が数人居るがいつもお客が居るところを見るとなかなか繁盛しているようだ。絵の腕前もなかなかのもので思わず感心してしまう。
ストリートミュージシャンも居る。椅子に座ってアコーデイオンを奏でている年配のロシア系と思われる人(やっている音楽がロシアっぽい。)、ギターとボーカルのウズベクの若者、10歳くらいの少年のバイオリニストはフランクシナトラの曲をひいていた。音色はしっかりしていた。

ブロードウェイの左右には、ビニールハウスのカラオケ店がずらっと並び若者たちが仲間とカラオケを楽しんでいる。びっくりした!カラオケの国際化も大したものである。日本が創りあげた世界に誇る文化産業かもしれない。 カラオケ店、CD、ビデオ販売店、本屋、時計店、化粧品店、おもちゃ屋にならんで、縁日でよく見る、射的、輪投げ、ボール当てゲーム、バスケットボール、ボーリング、などのゲーム店やセガの機械などが並ぶゲームセンターがにぎわっている。ここは、カフェと呼ばれる食事のできる店もずらりと並んでいる。店の前にバーベキュー台がありシャシリクを焼いていてうまそうな煙が充満している。
その場でこれといって指定するとそれを焼いて店の中のテーブルに持ってきてくれる。なかなか美味しい。もう何回もここで食べものを楽しんでいる。

ある日、一人でテーブルに座って注文したチキンバーべキューを待っていると年配の夫人とその娘さんらしい2人ずれが愛惜しても言いかと訊ねてきた。店には開いているテーブルもあったが、この席のほうが良い場所にあったためだろうか。タバコを吸っても良いかと丁寧に聞いてくる。
ロシア語である。一人はタシケント、若い方(なかなかの美形)はアンデジャンに住んでいるとの話。多少話はしたもののまだこちらのロシア語のレベルでは長く続かない。ちゃんとロシア語の勉強を続けなくては。
この日のチキンは美味かった。チキンとはこんなにうなかったのかと思うような美味さで確か、昔インドのニューデリーで商社に人に連れて行ってもらったレストランで食べたチキンの美味さを久しぶりで思い出した。やはり、チキンは途上国のチキンに限るようだ。

道路で遊ぶ子供たち、子供ずれの多い風景、セーラ−ムーン、家探し、JICAの現地スタッフ、忘年会(日本人会、対外経済省、カレッジ)、RBTC、通訳君、路上で細々と物を売っている人、美人の話、寒いのに店の外のテーブルで飲んでいる人たち、酒臭い人達、ポリスに従順な人、お金が剥き出しにされている光景、私に道、時間、タバコの火を聞く人の多さ。物乞い、レント交渉、不動産屋の攻勢、カフェでの同席、レストラン北京で会ったアメリカ人、パルケントバザールでの買物、広い家での格闘、ホテル代支払いの一部始終、家の管理人、水道、ガス、電気の状況、インターネット接続までの一部始終、車の運転と警官、ミラさんとその学校、引っ張りだこの人材、初めての近所の買物風景、花屋にて、1月のクリスマス、独立広場のお祭り、電話線の工事屋、銀行カレッジの忘年会、カレッジバイスデイレクターの誕生日パーテイー、銀行の窓口、ファイルから見た事務処理風景、ホテル代清算、家具屋さん巡り、中華料理店の閉鎖と引越し、公務員のたかり、交通警察官(ガイー)のやり口、再びアライスキーバザールへ、クリュークバザールにて、美味しいラグマン屋、テレビニュース登場

学校のカリキュラムについて

この国では、学校のカリキュラムはすべて国の定めた規定に従って作成されなければならない、という事が昨日わかった。起業に関するコースについても、ウズベキスタンの法制に関する授業は必ず入れなければならないとのこと。 外国からきている教師はどう対処しているのだろう。取り敢えず今回は、他の教師のクラスと私のクラスの授業を組み合わせることによって対応することになった。

そういえば、先日訪問した経済外交大学のMBAコースでも、IBSのBBAコースでも当局の規定でビジネススクールとは何ら関係のない科目を履修させざるを得ないと聞いたが正しくそのようだ。ソ連時代のままなのだろう。
当局の指導に従わないと卒業証書が出せないという大きな障害にぶつかることになる。IBS、経済外交大学ともこの国の政府ではなく海外の著名教育機関のお墨付きをもらい独自の卒業証書を出せるようにともがいているのが現状。
私としてはおおいにこれをサポートしていきたい気分になっている。

ウズベクの良心的バンカー

通訳兼アシスタントのトシの勤務するウズプロムストロイバンク銀行のミルザバエフ副会長のオフィスを訪問し1時間ほど面談。
トシによれば当地の銀行トップ(会長)は、各種のコネで天下ってくるあるいは金でポストを買ってくる輩が殆どで、金融、銀行業務は殆ど知らないのが通常とのこと。
この副会長が問う銀行の実務を取り仕切っており実質ナンバーワン。今日も、中銀から呼び出しがあり約束の時間に遅れたとのこと。 話してみると、極めてまとも且つ誠意あふれる人物。

トシが自分の上司なので誉めているのかと思っていたが、実力は充分と感じた。(この副会長は顧客の評判もよく彼の貢献で業績はどんどん伸びている由。また当国で通常見られる不正行為も全くやらないクリーンな人物だという。話をした後の印象も全くそのとおり。
今後じっくり付き合っていきたい人物。とはいえ、彼もこの国を急速に変えていくのは現実的にかなり難しい事もわかっていて、徐々に確実に進んでいきたいといっていた。
このような人材が活用される状況がくればこの国の将来も明るくなるとまで思わせる人柄であった。

タシケントビジネスマンクラブ

ナデイールから誘いがあり夜8時からの会合に出席。
JICAの中嶋氏JETROの下社氏も同席。行く直前に新納所長からあの会合は注意して参加したほうが良いとのコメントあり。日本人の名前を借りて商売に利用する傾向強しという注意。場所は高級アパートの屋上でお酒と食事付き。ここのブロフは当地で一番美味いとの評判。確かに美味しかった。20数名の参加者のうち英語を話すのはごく僅か。下社氏のロシア語は達者で通訳をしてくれ助かった。全般的に良くあるビジネスマンの会合と大差なくそれほどぎらぎらしたこともなかった。おそらく、JICAのような官僚組織に居ると、ビジネスの話に巻き込まれるのはご法度なのだろう。
私はこの会にしばらく出てみよう。面白い話があるかもしれない。
人の輪が広がることは間違いない。それに酒と飯も美味いし。

銀行カレッジの様子

はじめてきたときのカレッジの様子は、暗かったこともあり本当にシャビーに見えた。こんなところでやるのかというのが実感だった。でも今は大分違う。
部屋はすっかりきれいになったし、デスク、椅子、棚に電話も新しくなり、インターネット用の回線も敷かれ立派になった。学長をはじめ皆さんが準備してくれたもので本当にありがたい。学長も、私を預かっているところがこのカレッジだということが誇らしいとのこと。

他の学校などにも積極的に紹介したい由。おおいに臨むところ。なにしろこの学校に取り始めての日本人講師であることもあって生徒も興味心身で部屋のドアを開けて見にくる。職員も同じ。
悪い気はしない。ここに新しい風を吹き込めればと思う。
学長の博士論文にも協力できそうだし面白そう。大統領府のビジネススクールで教える話もあるようだしまたこれも楽しみ。また、カレッジの先生方と協力してクラスを面白くしていきたい。

突然使えなくなった携帯電話とインターネット

月曜日の朝携帯電話が使えなくなった。
インターネットもアクセスできなくなった。全く原因不明。通訳のトシ君がその原因を調べてくれた。電話は先週末私が日本に長電話をしたため電話会社に預けてあったデポジットを2ドルオーバーしたためと判明。早速お金を払いに行く。
インターネットはプロバイダーのサービスパッケージとして1月24時間まで57ドルでつかえるコースを選択してらしいのだが、その料金は1ヶ月ごとに振り込まねばならずサービスを受け始めてから1ヵ月後の1月13日を超えても支払いがなかったためカットされたという次第。(今日は1月14日)これがウズベク流なのであろう。
全く顧客の利便性など考えていないやり方。

携帯電話会社、プロバイダーとも外資との合弁企業なのに。お金を払うにはドルを闇市場でスムに交換する必要がありその為、ドルを取りに家へ戻りバザールで両替後電話会社とプロバイダーへ支払いに行く作業は思いのほか面倒。例えば100ドル相当のスムを数えるだけでもかなりの時間がかかる。100ドル=15万スムで100スム札だと1500枚数えなければならない。担当の係りも紙幣を数える機械を使うものの他の紙幣等が混ざっていないかをチェックし揃えて機械に入れ数え終わると束にして積み上げるという作業を行う。
数える際に紙幣から飛び散るほこりを避けるため担当係員は大きなマスクをして作業するというまことに珍妙な光景であった。やー参った!今日の午前中はこれで全てつぶれた。

森前首相一行来訪

14日から17日まで森前首相一行がウズベキスタンを訪問した。次週に東京で開かれるアフガニスタン支援国際会議の準備のためとか。ご一行様がジャパンセンターを視察することになり、たまたま当日(15日)同センターのビジネススクールで1日中講義をしていた私のクラスを見学するとのこと。学生たち(24人)もやはり緊張して授業を受けていた。ご一行様が着たら皆立ち上がって「こんにちわ」と言いなさいとの指示があった。前首相は教室に入ってきて皆が立ち上がると「勉強の邪魔をしになるからそのまま続けてください」と言い貫禄を見せていた。

ご一行さまはテレビ局のカメラ2台、対外経済省大臣、日本からのお供(経済産業省、財務省のかなりの高官を含む)をぞろぞろ従えとても教室一遍では入りきれないほどの人数。これも皆税金で出張に来ているんだろうな‐とやや複雑な気持ち。
お供の一人が授業で使っていたプロジェクターの内容(英語)を見て驚いていた。アメリカ人の金銭欲に着いて話してた場面で、その方はおそらく財務省の人ではないかと思った。
取り敢えず、ご一行さまの視察は無事終了。後で聞くと、地元のテレビニュースで放映された由。
私の姿も映っていたらしく、よく行くカフェのウェートレスが「あなた、テレビで見たよ」と話しかけてくれた。

2002年2月22日(金)

今日はこの国の祝日です。(イスラムの祝日)但し日本大使館、JICAは休みではないようです。先週も面白いことが色々ありました。
大家に家賃を払うために銀行へドルの現金を引き出しに行ったのだけれど結局引き出すまでに2日、4回行くハメになったこと、更にその翌日銀行の預金担当者から電話があって何とその担当者が800ドル貸してくれ、1ヵ月後に返すからといってきたこと、ロシア語の家庭教師を決めたこと(英語のうまい学生で普通の日常会話ではなく経済、ビジネスに使うロシア語を中心に教えてもらうため現在商学部で勉強中の学生を頼みました。)
週2回、1回5ドルです。果たしてうまくなるだろうか?

家では、お鍋でご飯を炊いてみました。(お米はどこでも買える。)下がおこげで上が柔らかいご飯ができあがりました。そこで街の電気店街‐秋葉原の小型版‐‐に行って炊飯器を買ってきました。
中国製とか、韓国製とかいろいろ会って値段も最低5千円から。結局松下製品を見つけ95ドルで購入。
SR-EA10N/EA18Nというなかなか立派な奴で保温機能、タイマーつき、お粥までできる。早速試してみたがすべてOK.やはりご飯が食べたくなるのはしょうがないのでしょうか。

ステーキとレタスに似た野菜、トマトのサラダ、マヨネーズも見つけたしなかなかのご馳走ができました。ステーキはスーパーで最上級のを500グラム200円ちょっと。
トマト1キロ100円(今季節はずれなのでトマトは高いとのこと)味は皆美味しい。 今、みかんが非常に美味しい。種があるのが邪魔だけれどみずみずしく甘いしソフトな味わいです。

学校のほうもひと通りスケジュールが回りだんだん慣れてきました。
生徒も熱心なものもいればいいかげんな態度の奴もいる。
銀行カレッジは結構学生の躾が厳しく教室に入るとき、授業が終わるとき全員起立してアッサロームアレイクムと挨拶してくれる。気分の良いものです。Tashikent Institute of Financeは、当地の一流校だけあって学生の質は高くまた礼儀も正しいし教えていて気持ちが良い。

問題なのは私立の大学であるインターナショナルビジネススクールで、この国にしては授業料が非常に高い(大学教授の年収の2倍程度)ため、学生も金持ちの子弟が中心らしく態度が良くない。といっても他が良いので比較の問題。私語があること、許可を得てからとはいうもののクラスの最中に教室外へ出る(トイレ、又はタバコ?)。
前前回のクラスで率直に注意したら、前回は多少直った。学校が学生を甘やかしているのではと他の大学の関係者が言っていました。

毎回の授業の資料をパワーポイントで作成しプロジェクターを使って講義していますが、バンクカレッジでは英語の資料をアシスタント兼通訳がロシア語クラス用とウズベク語クラス用に各々翻訳し、授業そのものも通訳つきで質疑応答などやり取りしています。
この資料作成と翻訳作業と資料のプリント作業がかなりの手間です。
ハンドアウトを作成しコピーを配るのですが各学校のコピー機、紙の質が極めて悪いためJICAのコピー機、紙をただで使わせてもらっている。ただ、コピー枚数、組数が多く結構な労働になります。

ここで日本語教師をしている若い海外協力隊員たちも同様でみなコピー作業をJICAでやっています。昨日は、日本語教師の若い隊員が、学生の態度が悪いと嘆いていた。
やはり、感覚の違いもあるのでしょうか?確かに、色々なところから講義を頼まれて行ってみても、教室が確保されていなかったり、プロジェクターの用意がなかったり、ハンドアウトも事前に渡しておいたものがなかったりと、まあ色々あることはありますが。今日は、休日で本来3クラスある日が何もなくなってのんびりこれを書いています。

2002年2月18日(日)

先週の土曜日は春のような天気で20度近くになったと思ったら日曜は雪でした。家の中もだんだんと整えつつあります。
バスルームのマット、クッション(座布団が見つかりました)フライパンセット、タッパウェアの偽物?急須、玄関の入り口のマット、まな板、ハンドクリーム等々。
青年隊員たちは生活費の支給額が極めて低いためそこそこ現地並みの暮らしをせざるを得ないようで、JICAとか大使館の人たちが時たま自宅に招いてあげているようです。
喉の痛みがきて風邪になるとまずいなと思ったのですが何とか防ぎました。薬屋でビタミン剤とトローチのようなものを買いました。
昨日は近くの店でパンを買ったのですが(スライスされている普通のパン)帰ってみたらカビが生えていた!というようにいろいろありました。

2002年2月16日(土)

先週、借家の家賃を払うため米ドルを引き出しに現地の銀行に行きました。たまたまその日は5ドル札しかないとのことで翌日はあるからという話。
翌日の9:30に銀行へ行きましたがやはり未だないとのこと、今度は2時にくれば100ドル札を用意しておくからとのことで2時に再度行くとやはり未だないとのこと。
用意できたら知らせるということで3時ころに電話をもらうことになりました。ところが3時になっても何の連絡もありません。いろいろやった結果4時に再度銀行に行き漸く100ドル札で6か月分の家賃(前払いにすると月の家賃が大幅に安くなります)を入手しました。

ここまではまあ良いとして、翌日銀行の担当者から(担当者といっても預金引出しの際に事務処理をしてくれる人)電話があり、なんと耳を疑うような依頼を受けました。彼は小生の口座残高を当然知っていて(当地の所得レベルでは大変な金額にあたります)800ドル貸してくれ、1ヵ月後には返すから、というのです。
こちらはしゃべっていることがわからない振りして断りましたがかなりのショックでした。当国では官民とも給与はきわめて低く抑えられており、それだけでは皆暮らせないレベルとのことで皆何かしら知恵を絞って生活費を捻出しているのが通常だそうです。(確か昨年言ったキューバでも同じことを聞きました。)

2002年4月14日(日)

上田さん、小林さんとテニスをする。小林さんはここへ来てから初めてのテニス。学生時代にかなりやっていたそうで、やはり上手い。
最初は久しぶりなのか戸惑っていたが直ぐに戻ったのはさすが。ただやはりしばらく運動をしていなかったとかでかなりお疲れの様子。特に足が動かなかったみたい。ボールを前に落すと殆ど拾えなかった。
でも結構楽しめた2時間だった。その後我が家にきてもらい竹村さんも合流して夜の12時過ぎまで楽しく飲み食べ話した。2人はサウナに入りご機嫌。やはり風呂上りは本当に色っぽい。なかなかの感じだった。

竹村さんは今回が初めての我が家訪問。夜勤明けもあってアルコールは飲まなかったが面白い話ができてよかった。
小林さんはいったん大学を出てから看護学校を卒業し国立病院に入った後そこを辞めて協力隊に入ったと言う経歴の持ち主。
学生時代はテニスばかりやっていたそうな。竹村さんは高校のときから看護を専攻したと言う根っからの看護士。ニュージーランドにいって英語を習ったとかやはりかなり前向きの実行力あるしっかり者で、日本に帰ったらベンチャービジネスを起こしたいとか。もちろん協力しますよ。夜1時近く雨がかなり降る中2人を見送りがてら地下鉄の駅まで行く。
小林さんのタクシーは拾えたもののやはり無事に帰宅できるだろうか心配になる。竹村さんは一人でタクシーを拾うため別の方向にいってしまったが上手く拾えたのだろうか。明日8時に出勤とか言っていたが。若さの差かね。
でも若い人たちとしゃべっていると楽しい。向こうもそうだとあり難いけど。

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